ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

非日常が日常化しつつある

 4月も終盤、ゴールデンウィークが近づいてきた。しかし今年は新型コロナ騒動で、例年のたとえ数日間でも非日常的な行動を起こせる可能性があった状況とは異なり、残念ながら度重なる外出自粛のおかげで家の中での過ごし方を工夫する必要がありそうである。しかしよく考えれば、我が家でも、小学生、中学生が毎日家にいる非日常が支配している。当然ともいえるが、学習時間はおざなりで少なく、時間を持て余し気味にしている。普段は職場や勤務先に出かけている人が、外出を控え在宅ワークに縛られている(以外にチェックが厳しくはいるようではた目には大変そうに見える)姿も非日常である。TVのニュースで放映される繁華街は、ほとんど人の波が見られない非日常であった。

 

 緊急事態宣言の期限は来月6日に迫っているが、ほとんどの学校が休校しており、その期間が5月末で延期されるようなニュースが昨日あたりから聞かれるようになった。学校現場は長引く休校に対し、3月の年度末を休み、4月の新年度のスタートを切ることなしにゴールデンウィークを迎えようとしている。これからどのようなイメージで、新年度を開始するのか、学習の遅れをどのようにして取り戻すのか、その真価を問われようとしている。

 しかし、ものは考えようである。これまで、遅々として進まなかったタブレットやパソコンを使った教育環境が急速に整うようになるのではなかろうか。失われた時間の大きさは考えざるを得ないが、より個々の学習状況に合わせて学習を進める体制ができるようになるのではなかろうか。そう考えれば、決して無駄な時間ではない。今はそこに向けて一人ひとりが自律的に時間をコントロールできるように、生活習慣の自己管理を堅実にできるようにする時間とできれば良いではないか。

 

 また、単純に時期をずらせばよいという問題でもないが、これを機に欧米に合わせて9月新年度開始という考え方もできそうである。受験シーズンが真夏ということにもなりかねないが、日本の文化風土をあらためるという意味でも面白いアイディアかもしれない。細かなことを言い出せば、そんな簡単に行くはずもないが、桜の咲く季節に入学式をする風習をこれから永遠に続けることを再考する良い機会であることは確かである。