ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

年齢を意識する時

 また一人訃報の通知を受け取った。正月恒例(?)の年賀状、儀礼の挨拶でしかないのかもしれないが、それでも知人や友人の情報は入ってくる。これまでは喪中の挨拶といえば、たいがい祖父母や両親の訃報がほとんどであった。しかし昨年あたりから、同級生など、ほぼ同世代の逝去の通知が増えてきた。もちろん、事故や病気でこれまでも皆無というわけではなかったのだが、当方も両親が相次いで亡くなったこともあり、年賀状の季節になると喪中の挨拶が少しずつ増えてきたことはわかっていたのだが、コロナ禍の影響もあったのか、今年はやけに多くなり、しかも同世代の訃報通知の増加に驚かされた。

 

 考えてみれば、我が子の年齢もそこそこに達している。孫も生まれた。いやがおうでも自分自身の年齢を意識せざるを得ない年ということである。街を歩けば、私よりも明らかに年齢が高い人が結構元気に行き来している姿を日常として見かけるので、これまではあまり意識することはなかった。しかし、それだけ日本の社会は高齢化しているという証かもしれない。考えてみれば平日の昼間の時間帯は、若者は学校に通っているのだし、多くの人は職場でそれぞれの仕事に精を出しているはずであり、したがって住宅街に残っているのは高齢者ばかりである。そんな中で生活していれば、あまり自分自身の年齢を意識することはないのも当然かもしれない。

 

 目前の課題を追いかけていると、対処療法ばかりになってしまい、大所高所にたって長期的な視点で物事を解決しなくなってしまう。そうなれば、抜本的な改善などできそうもない。長い間意識しなかった、自分自身の実年齢を思い起こし、そろそろ年齢に見合った生き方を心掛けねばならない。今までのような破天荒な生き方ではなく、社会一般の常識に照らし合した普通の生活を心掛ける必要がある。

 

 普通?、普通とは何を物差しにすればよいのだろうか。マスクが日常と化した現状ではマスク着用はマナーであり、普通の装いである。でもこれまで生きてきた長い時間の中では、マスクは冬の一時期風邪を引いたときにするぐらいであった。そして花粉症シーズンに花粉が苦手な人は防護するために着用しただけである。夏の暑いさなかにもマスクを着用し続けた時期はこれまではなかったはずである。しかるに、マナーとしてのマスクが当然であるようになってしまった。過ぎ去りし時を、ついつい考えてしまう今日この頃である。