ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

連続490日を更新

 雨にも負けず、風にも負けず、新型コロナを恐れることもなく、身を切るような冷たい風に屈することもなく、厳しい酷暑をものともせず、来る日も来る日も1万歩というノルマを達成するために、時間を作り出し、さらには何らかの自分を納得させる雑用をひねり出しては、それを口実に歩き続けてきた。もちろん1万歩どころか、その倍を歩かざるを得ない日もたびたびあった。歩くことだけを念頭に置いて、さらには記録を伸ばし続けることだけを目標にして、それだけでは自己嫌悪に陥りかけたこともあったが、それでも自分自身を叱咤激励してなんとか記録を更新し続けていることを誇りにしたい。。一昨日の7月24日、一日1万歩の記録をとうとう490日に伸ばした。ロートルと化してしまった自分自身を振り返ると、唯一これだけが他人に自慢できることなのかもしれない。その強迫観念が成し遂げた、きわめて個人的な満足でしかないささやかな誇りである。

 そんなことに、現(うつつ)を抜かす余裕があるならば、もっと有意義なことに思慮を働かせ、社会に役立つような行動をとるべきではないか。そういう忠告を受けそうな状況ではあるが、実際とにかく歩いているだけだで達成していることを考えると、あからさまには面と向かって非難しないまでも、嘲るような態度になる知人も多いと思われる。箸にも棒にもかからないつまらない記録にこだわって、毎日をあまり有効に過ごしていない証拠ではではないかと考える人も少なからずいるであろう。

 とりたてて、毎日の課題が山積みになっているわけでもなく、けっこう時間を持て余し気味になっている今だからこそ、容易にやり抜くことができ、しかも自分自身のアイデンティティを維持しているような感じがする。その印象に単に「しがみついているだけなのかもしれないし、そういう意味ではまさに自己満足にすぎないのかもしれない。

 それにしても、現在の日本の街中でマスクが必需品になってしまった感がするのは私だけではないであろう。違和感が消えないのは、残念である。外出時、街中を移動していると、真夏を迎えるこの時期にあってもマスクを目にしないことはない。私自身は、街中を移動するときはほとんどノーマスクで過ごすが、交通機関を利用する場合や、建物内や室内に入る場合は、重苦しい無言の圧力を感じることが日常になりつつあり、できるだけマスクを持参しては必要に応じて装着するようにしている。そのことを考えるだけで(意識に上らせるだけで)、息苦しさとなって私を覆いつくす。したがってどうも町中に行くよりは、自然が多い近所の山のふもとを散歩するほうが救われる日常がある。なんとも生きづらい世の中になったものである