ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

コロナ禍で考えたこと

 マスクが不要だとは思わない。今の状況では、屋内に入る場合にはマスクは不可欠である。しかし、野外で歩く場合や自転車で移動する場合も必要であろうか。屋外でも身近で会話する場合は必要かもしれない。でも、私は街中で時折マスクを不用意に外す人をこれみよがしに責めようとは思わない。たまたまマスクを持参し忘れた場合もあるかもしれない。マスクをせずに、大声でしゃべる人には注意するかもしれないが。

 不運にもコロナに感染した人は、たまたまの不注意で移されただけかもしれない。しかし、移された人が悪人だとはいえない。その人を非難する姿勢は、自分自身がその立場に立たされたとき、すべて自分自身に突き付けられる言葉である。移された人は、そのこと自体を深く反省する機会を与えられるべきだし、感染させられたことを理由に周囲の人たちから拒絶されるべき存在になったわけではない。もちろん感染が確認された段階で隔離は必要なのは仕方がないにしても。

 

 都会から田舎に帰ってくるなといった、自粛警察の風潮がコロナ感染禍の中で広まったことがある。禍は街からやってくるというわけでもないのに、その結果親の死に目にも会えない人々が、その時期にはたくさん居られたことであろう。伝染病を危険視する意識は、人間として当然ではある。しかし、自分の身体さえ安全なら良い。そんな利己主義は残念ながら病魔を退散させられない。そもそも病気を移された、あるいは移されるかもしれないという言葉自体が、自分自身の責任を回避して、他人に全責任をひっかぶらせるような言葉である。所詮、自分の不注意を棚に上げて発せられる言葉でしかない。

 

 オミクロン株に対する水際対策も要請患者が出れば、濃厚接触者を隔離するという方策がとられているが、その対策はそろそろ限界に近付いている。感染経路が特定できなくなった時、次の段階の対策はあるのか。また外出制限を強化して、他者との接触を可能な限り遮ろうとするのだろうか。病気に感染することを自己責任に帰するだけでは問題は解決しない。政府が採りうる対策は、あまりないかもしれないが、重症者に対する治療がスムーズに行えるように。そしてコロナ患者だけでなく、救命を急ぐ患者に対してもスムーズな治療行為が行われる医療対策をしっかり確立することである。

 

 私もコロナで亡くなった知人がいる。5月、6月の医療ひっ迫した状況の中で失われた命である。私自身も十分に注意しながら日常生活を送る心がけはしているが、それでも必要以上に自粛するつもりはない。コロナに過剰に反応する必要もないと考えている。この冬はマスクは不可欠かもしれないが、年を越して春を迎えるころには、堂々とマスクをとれる時期が訪れることを祈るばかりである。マスクが日常生活を彩り続けることは願っていない。