ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

価値観の違いは埋まらない?

 乳母車に犬を乗せて散歩させているおばさんを見かけた。子どもが大きくなって使わなくなったものを再利用しているのか、それとも子どもを授からなかったことで飼い犬に愛情を注ぐようになりそのために購入したのだろうか。私自身は、犬の散歩の途中における糞尿の世話が面倒だったこともあり、3年ほど前に死亡したのをきっかけに犬を飼わなくなった。家が不用心だから、犬がいれば賑やかになるよ、と家族からはせがまれてはいるのだが、積極的に飼う機会に恵まれないこともあって、現在のところ犬はいない。逆に、近所の人が犬の散歩の際に、結構マナーの悪い場合も多く見受けるので、自分がそういうマナーの悪さを見せたくないこともあって引き気味である。

 

 それでは猫が好きですかとよく言われるが、家の周りに野良猫がウンチをよくしていくこともあって大嫌いである。だから猫好きの人の会話にはまず入らないようにしているし、性格的に合わないと思ってしまう。その点、犬は好きでも嫌いでもないが、以前飼っていた犬が亡くなった時に、火葬場に連れて行ったときは、身内が亡くなったのと同様に身を切られる思いをしたこともあって、あまり意欲的に飼いたいとは思わないようになっているのも事実である。不審者が周りをうろついたときには、しっかり知らせてくれる良さはあるのだが・・・。

 

 だからといって、犬好きや猫好きの人を毛嫌いする気は毛頭ないし、動物が好きという価値観を否定する気も毛頭ない。抵抗感があるのは、そういった気持ちを他人に無意識ではあるが押し付けてくる人がいることである。さまざまな価値観があることを互いに認め合えば良いわけで、それを前提にもしも妥協点を探らなければならなくなった時、どこまで許容できるかということであろう。少なくとも家族の関係では、家族全員を納得させる理屈を作り出さねばならない。あるいは集団生活の中では許容範囲を、ほぼ全員が明確にわかるような基準をひくことになる。それが国家になれば法律がその基準ということになるのであろう。他者の要求をどこまで許容するのか、他者の行動をどこまで容認するのか、もし守らなければそれを強制できる権力が必要になる。それが国家でいえば警察力であろうか。それを維持していくためには税を集めなければならない。

 

 国家の行為が恣意的なものになっていくのは当然かもしれない。権力を持っているものが、自分たちにとって少しでも有利になるように、たぶんそのこと自体はあまり意識されていないかもしれないが、あるいは逆にものすごく意図されたものになっている場合もあるだろう。そういう強制力を持ち出さずに、交渉事をこなしていこうとすれば、それは相手の価値観を最大限に認めることになる。自分自身を抑圧することでしか成り立たないのであれば、価値観の相違は埋められない。でも、・・・・