ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

微妙な温度差

憮然・・失望してぼんやりしている状態(28.1%)、腹を立てている(誤56.7%)

砂をかむ・・無味乾燥でつまらない様子(32.1%)、悔しくてたまらない(誤56.9%)

御の字・・大いにありがたい(36.6%)、一応納得できる(誤49.9%)

本来の意味を理解している人が意外に少ない言葉が多くなっている、そして本来の意味とは違った使われ方がどんどん広まっていることが、文化庁「国語調査に関する世論調査」でわかった。また、1か月で一冊も本を読まない人が約半数いたし、読書量が減っていると答えた人は5年前より7割以上増えた。

 

言葉の使い方が、本来の使われ方からずれていくのは、どうしてであろうか。髪の毛は染めないようにという学校の校則ができると、これを徹底して守らせるためには、もとの地毛をしっかり記録しておかなければならないし、黒色という基準を作ってしまうとその基準の判断からして、人それぞれ違っており、どこまでを許容するか、といった不毛な議論が起こってしまう。はては少し地毛が茶色がかっていても駄目になり、強制的に黒色で染めさせるといった非人道的なことが起こってしまう。

 

スカートの丈はひざ下何cmと決めると、最終的には物差しで測ることによって厳格に処理しようという動きになってしまう。決めたルールは守らせるという考えの人がいれば、そんなバカげたことで論争することは時間の浪費とばかり無視する人も出てくる。国の法律ともなれば、むやみやたらと違反されると困るので、罰則が作られ厳格に運用されることにもなる。それが治安の維持にもつながっているので、これは無視できないのだが、職場の中で、学校で、はたから見ているとなんとも奇妙奇天烈な意見が飛び交っていることも多い。それは、言葉の意味の受け取り方が少しずつ違うからであり、そのニュアンスによって認識の差が出てくるからであると思われる。だからこそ、それらの考えをすり合わせ、できるだけ共通理解を深めようとするのだが、受け止め方も様々であるし、それを意識して厳しく対処すると、それに対する反論が必ず出てくる。

 

だからこそ人間社会の面白さがあるのかもしれない。ある程度許容できる幅をもって、行動していけばよいのだと思うのだが、それがまた何でもありの緩やかな人と見られてしまうこともある。自分が周囲にどのようにみられているのか、そしてまた私自身が人をどのような価値基準で判断しているのか、その辺を時にはじっくり考えて見直すことが大切なのかもしれない。