ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

来年度国家予算107兆5964億円なり

 今回の予算をそのまま認めると、2022年度末には国債発行残高が1027兆円に達する。言い換えればそれが日本国民の抱える借金となる。2022年度国家予算は107兆円5964億円、主な歳出は社会保障費が36兆2735億円(33.7%)、防衛費が5兆3687億円(5.0%)、国債費が24兆3393億円(22.6%)、コロナ対策予備費として5兆円が計上されている。これに対し、歳入は税収が65兆2372億円(60.6%)、新規国債発行が36兆9700億円(34.3%)となっている。補正予算で結構な数字を刻みながら、22年度予算でも概算要求を積み上げる形で予算が組まれた。コロナ禍という極めて特殊な環境下での例外的な措置なのであろう。

 

 しかるに、日本は財政破綻がささやかれ、財政規律が厳しく求められている状況にあったのではなかろうか。それが、緊急事態という特殊な状況の中で、際限のない金融緩和とともに、財政規律を失った予算が堂々と組まれている。子孫へのつけを増やすだけではないか。確固たる理念のもとに歳出の増加を企画しているなら問題はないのだが、岸田首相にも、確固たる理念を求めるような気配はなさそうである。来年夏の参議院選挙対策としての総花的な歳出はあっても、重点項目が特定できないほど様々な数字が積みあがってしまっている。選挙対策と党内融和策があいまってこのような数字が出てきたことは容易に想像がつく。

 

 日本のこれまでの政権と同様、国家百年の計を考慮して議論された結果ではなく、目先の自分たちの利益しか追わない政治家の悪癖である。なんとも歯がゆい状態をさらけ出している。

 

 オミクロン株への不安をさらけだしながら、岸田内閣は次のステージに進みそうである。アベノマスクで醜態をさらけだしただけでなく、いかに予算の無駄遣いを行っているか、そのあたりで責任を痛感していない政治家の間抜け加減が気に障るところである。国民から徴収した税金だからこそ、自らの懐が痛まないという発想になるのか、税金の使途として、それを有効に使用しようという意識が徹底されるのか、そこが国民の信頼を醸成する分かれ目ではないか。

 

 国民から徴収した税金を、可能な限り有効に活用する。そんな意識がないからこそ、文書交通費をたった1日国会議員として過ごしたからと言って1か月分100万円を

懐に入れることに無頓着になれるのである。民間では、少なくとも2倍以上の収益を上げなければ、その賃金を正当にもらい受けることはできないような認識はできている。つまり1000万円の収益を上げて初めて500万円の年収を手にできるのである。2000万円の年収を獲得するためには、少なくとも4000万円の収入に匹敵する業務上の成果を上げる必要がある。ましてや日本国民の公僕ともなれば、お金に換算できないほどの成果を国民にもたらす努力が求められてしかるべきである。そうではないのか。

コロナ禍で考えたこと

 マスクが不要だとは思わない。今の状況では、屋内に入る場合にはマスクは不可欠である。しかし、野外で歩く場合や自転車で移動する場合も必要であろうか。屋外でも身近で会話する場合は必要かもしれない。でも、私は街中で時折マスクを不用意に外す人をこれみよがしに責めようとは思わない。たまたまマスクを持参し忘れた場合もあるかもしれない。マスクをせずに、大声でしゃべる人には注意するかもしれないが。

 不運にもコロナに感染した人は、たまたまの不注意で移されただけかもしれない。しかし、移された人が悪人だとはいえない。その人を非難する姿勢は、自分自身がその立場に立たされたとき、すべて自分自身に突き付けられる言葉である。移された人は、そのこと自体を深く反省する機会を与えられるべきだし、感染させられたことを理由に周囲の人たちから拒絶されるべき存在になったわけではない。もちろん感染が確認された段階で隔離は必要なのは仕方がないにしても。

 

 都会から田舎に帰ってくるなといった、自粛警察の風潮がコロナ感染禍の中で広まったことがある。禍は街からやってくるというわけでもないのに、その結果親の死に目にも会えない人々が、その時期にはたくさん居られたことであろう。伝染病を危険視する意識は、人間として当然ではある。しかし、自分の身体さえ安全なら良い。そんな利己主義は残念ながら病魔を退散させられない。そもそも病気を移された、あるいは移されるかもしれないという言葉自体が、自分自身の責任を回避して、他人に全責任をひっかぶらせるような言葉である。所詮、自分の不注意を棚に上げて発せられる言葉でしかない。

 

 オミクロン株に対する水際対策も要請患者が出れば、濃厚接触者を隔離するという方策がとられているが、その対策はそろそろ限界に近付いている。感染経路が特定できなくなった時、次の段階の対策はあるのか。また外出制限を強化して、他者との接触を可能な限り遮ろうとするのだろうか。病気に感染することを自己責任に帰するだけでは問題は解決しない。政府が採りうる対策は、あまりないかもしれないが、重症者に対する治療がスムーズに行えるように。そしてコロナ患者だけでなく、救命を急ぐ患者に対してもスムーズな治療行為が行われる医療対策をしっかり確立することである。

 

 私もコロナで亡くなった知人がいる。5月、6月の医療ひっ迫した状況の中で失われた命である。私自身も十分に注意しながら日常生活を送る心がけはしているが、それでも必要以上に自粛するつもりはない。コロナに過剰に反応する必要もないと考えている。この冬はマスクは不可欠かもしれないが、年を越して春を迎えるころには、堂々とマスクをとれる時期が訪れることを祈るばかりである。マスクが日常生活を彩り続けることは願っていない。

今年は暗いニュースで終わりそう

 コロナ禍は、オミクロン株の発生で世界を混乱の渦に陥れた印象。せっかく日本国内では感染者数が急減したというのに、残念ながら手放しでは喜べない予断を許さない状況であるようです。幸いにしてコロナ禍の影響は私の周辺では、まだまだ被害が大きかったとは言えないのですが、先日喪中のはがきをいただき、親しくしていた友人の逝去の報に接して、まったくの他人事ではなかったことを再確認させられました。

 

 コロナの影響ではないですが、叔母が余命僅かであることも知らされました。またいとこの配偶者も、私よりも若いにもかかわらず病状がなかなか改善しないようです。そういう意味では私にとって今年は良い話はなかったかもしれません。それにしても、友人の逝去の話を詳しく聞くと、運命のいたずらが人生を大きく変えてしまうことを感じざるを得ません。夫婦二人ともコロナにかかり、ひとりは人工呼吸器につないでもらっって助かり、もう一方はつなぐための機械に恵まれなかった。たったそれだけの差が生死を分けたのである。

 

 医療の現場は、そのような切羽詰まった状況の中で、できる限り多くの患者を救おうと奮闘されていたのだと推測する。それでも救えたかもしれない命を救えなかったという事実は記憶される。そこがなんともやりきれない。

 

 とはいえ、次々訪れる状況に対処を迫られる中で、記憶は遠のいていくのであろう。

悔やみきれない事実があっても、時間の結果は過去の事象として積み重なっていく。本人が納得しようが納得しまいが、どんどん過去のものにしていく。いや、人によっては決して削除できない生々しい記憶として永遠に生き続けるかもしれない。

 

 人生をポジティブに過ごすためには、そういった記憶は重荷でしかないし、少なくとも過去を引きずり続けることで、なかなか新しい希望を見つけることはできなくなるであろう。日々の生活から、笑顔が忘れられてしまう。それでは新たなる展望など出てこない。笑いを取り戻すためにも、自分自身の生活リズムを思い出して、活力を取り戻す必要がありそうである。

 

 マイナスイメージを植え付けられるような出来事は、日々少なからず起きているが、それでも自己認識としてそれらの事象をプラスに転化できる思考が可能になれば、少なからず気持ちは前向きになる。それを意識して明日から頑張ろうと思う。前向きにやるべきことを目標にして取り組んでいく、一歩を踏み出す。そんな姿勢が、苦しい時には必要なのではなかろうか。

 

喪中のはがき

 年末になると、そんなに多くはないのだけれども喪中のはがきが届くようになる。今年は、これまでと少し違う傾向に戸惑いを覚える。というのも、同級生やさほど年齢の違わない友人、知人の訃報が増えているのである。これまでは知人の親の世代が多かったのだが、今年は同世代が増えてしまい、しかもコロナ禍で命を落とした人も判明し、途端に恐怖心を感じた。

 

 恐怖を感じたといえば、和歌山市の紀ノ川にかかる水道橋の崩落も、将来の不安を掻き立てた。たかが水道管が崩壊して、断水しただけではないかと思っておられる人も多いが、いまや水道は公共インフラでも重要な位置づけにある。水道、電気、ガス、道路など、いったん不都合を起こせば、復旧するまでの間、不便をかこつことになる。水道は、飲料水として料理に欠かせないし、お風呂や洗濯にも使う。トイレにも必要だ。日常生活を支える大動脈である。

 

 その水道に不可欠な水道管の改修が進んでいない。全国72万キロメートルのうち、約13万キロメートルが耐用年数を超えているという。つまり早急に新しいものに交換しなければならないのだが、人口減少などで水道事業の悪化からなかなか改修が進んでいない。大阪市では水道管の総延長5200キロのうち法定耐用年数を超えた割合が2021年3月末で51%に達した。しかし事業収益が減り、職員数も4割減って、更新できる水道管は年間60~70キロで計画ははかどっていない。全国の多くの自治体が、同様の状態であるという。

 

 また道路も、改修がなかなか進まない。建設後50年を経過した橋梁は2021年3月末で全体の32%、トンネルは23%もあるという。2012年の中央自動車道笹子トンネルの天井板崩落事故を受け、5年に1度の定期点検が義務付けられているが、それによると、橋で2万3800か所、トンネルで1100か所が緊急または早急に修繕が必要とされている。

 

 新規の公共事業ばかりが目立つが、既存のインフラの改修も実施されないと、どのような事態が起こるかわからないし、また一時的にせよさまざまな不便を強いられることになる。このことを忘れて、政治は語れないのではなかろうか。経済の活性化という意味においても、考慮していかなければならない問題である。

 

 

寒くなりました

 雨にたたられた一週間。急速に気候が冬に向かっているようだ。すっかり日常生活の中に定着したマスクが、季節的にもますます違和感なく受け入れられている。新型コロナの感染者数が激減したものの、冬の到来を前に、気持ちを緩めてしまえば、第6波の襲来を招く恐れはありそうである。しかし、経口薬も承認される気配だし、3回目のワクチン摂取の準備も進んでいる。

 10月下旬の総選挙による騒々しい時期を過ごし、岸田文雄首相がその総選挙の結果を受けて、自公政権に支持を得たという自信をつけたような面構えで、「新しい資本主義」による政策を語っている。その一方で、安倍晋三元首相は、細田派を衣替えした安倍派の会長に就任し、まだまだ現役であることを強調して、自民党内に影響力を行使しようと躍起になっている姿が滑稽である。世論がうるさくなってくると雲隠れ、何ら説明責任を果たさない。そのくせ横柄な態度がいまだに目に付く。

 

 野党・立憲民主党の枝野代表は、その逆で、総選挙の結果が思わしくなかったことから、党内の批判的な意見を躱しきれず、退陣を余儀なくされた。今月末には新しい党首を選ぶための選挙が行われる運びとなった。4年前の孫選挙では、時代の風雲児であった枝野代表だったが、政治家は国民の支持を得られなくなると寂しいものである。

 

 対して維新の会、ほぼ関西限定であるが、自民党に対する批判票を集めた。大阪では完勝である。自民党に代わる政権の受け皿として認知されたようである。来年の参議院選挙、そして次の衆議院選挙で更なる党勢拡大ができれば、一躍政権を担える政党になるかもしれない。しかるに国民は、移り気である。歳費削減といった身を切る政策が目立つ程度で、まだ自民党を押しのける力はない。

 

 野党にとっては、民主党政権がいまだに大きな汚点として国民に記憶されているのがつらい。自民党に代わって政権を担当させるわけにはいかない。自民党政権もひどいものであるが、それでも現状はまだましであるはずだという、きわめて消極的な支持理由から自民党が支持されたというのが、今回の衆議院総選挙の総括であろう。これは日本にとって不幸な状況である。政治不信を残したままに、資本主義以後の時代の社会を設計していくことになるのである。

 

 残念ながら、このままセーフティネットが綻びていくならば、21世紀後半の日本がどのような社会になるのかあまり明るい予測はできない。どんどん限られていく利権の争奪戦が行われる中で、国民はそのとばっちりを受けて、努力が報われない時代を迎えるようになるかもしれない。他人への慈悲を忘れてしまって、利己主義が社会にはびこり、経済格差が拡大し続けるであろう。貧困層ばかりが増えていくなかで、国力は衰え、犯罪が増えていくことが予想される。希望は消失し、刹那主義が闊歩する中で、社会はますます活力を失っていく。

 

 悲観主義的な予想ばかりが先にでてしまうが、経済の活性化を図るなら、まずは需要増大を目指すには、消費の拡大を仕掛けるしかない。そのためには家計の可処分所得を増やすことである。おカネをばらまくだけでなく、時代の人材を育てなければならない。生活不安を解消する手立てを講じなければならない。そしてそれが完全に機能して、毎日の生活に笑顔が戻ってくる生活を保障する政治が待たれているのではなかろうか。日々の暮らしに、夢が持てる政策が必要なのである。

 

 

 

自民党が信任されたわけではない

 残念ながら与野党均衡した状況も出現しなかった。3時過ぎ目を覚ますと、画面に自民党256議席公明党30議席の数字が目に入った。これで与野党逆転は完全になくなったし、与党が謙虚な国政を行う可能性もほとんど消えてしまった。

 

 大阪は自民党に代わる受け皿として維新の会が、圧勝。候補者をたてた19選挙区すべてで勝利した。それを含めて都心部では立憲民主党も善戦したけれども、地方ではほとんど波風が立たなかった。投票率が上がらなかったのが、その結果を生み出したのかもしれないが、それほどまでに国民は政治への不信感を募らせているのであろう。たかが一票は、吹けば飛ぶようなものであり、政治が大きく変わることなどないのかもしれない。

 

 しかし、このまま大きな批判を受けることもなく、何度も求められてきた説明責任も果たされることなく、さらなる独善的な横暴が大きな騒ぎとなることもなく、これからも続くのであれば、国民感情と政治家の意識の乖離は進むばかりである。意思疎通など無意味なものになってしまうであろう。そうなれば国民の嘆きなど、政治家には届く術もないだろうし、その結果どのような社会が出現するのか想像もできなくなる。もっと深刻な状態にならなければ、歴史の進歩に寄与することはできないのだろうか。

 

 

棄権は危険に通ずる。みんな選挙に行こう!!

 衆議院総選挙も終盤。明後日には結果が出てしまう。コロナ禍で評判を下げた主要国の首脳として名前が先ず挙がるのは安倍晋三元首相であったことを、日本国民は忘れてしまったのだろうか。つい最近もアベノマスクが倉庫に置き去りにされていたことが判明した。置き去りにされていた間の保管料が6億円という。一人200万円の非正規社員の年収を考えると実に300人分である。マスク代も考えると、その何十倍にもなる。これらが無駄な費用として消えていったのである。

 政治は、限られた資源をいかに国民にとって有効な価値あるものにしていくかを選択する場である。権力を行使できる者が、身近にいる人々だけに便宜を図るだけならば、残念ながら政治家として失格であろう。もちろん失敗もあるであろう。しかしその場合は、自らの行為の説明責任を果たし、国民の審判(理解)を仰ぐべきである。意見の異なる者たちを誹謗する事によって、求められた説明責任を果たさない態度は許されない。また、議論を深めることによって互いの溝を埋める努力を惜しんでいては、国民にとってよりベターな政策などは立案されないし、実行されることもまずないであろう。

 

 政策を選挙公約にして、国民に広く知らしめるためには2週間は短すぎるであろう。政治を国民にとって身近なものにする努力をする時間は十分に取れない。また、自分たちの政策の利点を説明しきれないであろう。しかし、この30年日本の経済力が大きく落ち込んできたのは、この間政権を担当してきた政党の責任であることは明白である。また、日本の平均的な家計が可処分所得を増やせなかった原因を作り出した責任の大半も政権を担ってきた政党が負うべきであろう。日本国民の一人当たりの国民所得が韓国より下位になったのも同様である。

 

 確かに政権政党が主張するように株価は上がったのかもしれないが、その恩恵には日本国民のほとんどはあずかってはいない。失業率が下がったという主張もあながち間違いではないが、それは非正規社員が増えたからであって、年間所得が200万円を切る貧困層を増やしたにすぎない。それよりも、輸出産業である大企業を支えるために、円安誘導政策がすすめたことにより、ガソリン高や食料品をはじめとする輸入品の高騰に日本の庶民層が苦しめられているのである。

 

 少子高齢化の最大の要因は、若者をまずは貸与型奨学金の返済で追い込み、就職氷河期で冷遇を続けた結果、働いても働いても豊かになれない人々を大量に生み出してしまったことではないのか。「自分だけ良ければよい」、「お金さえあればよい」、「今だけ良ければよい」という利己主義が、強欲主義が、経済成長を大きく歪めてしまったのではないだろうか。経済は生産と消費の絶妙のバランスがあってこそ、大きく成長するはずである。それが、持てる者だけが豊かになり続ければ、持たざる者は貧しくなるばかりである。経済格差の拡大が経済成長を阻害する最大の要因ではないか。

 

 第2次世界大戦後、冷戦があっても大きな熱い戦争が生じなかった状況の中で、資本主義経済はより大きな利益を追い求めグローバル化を進めてきたが、その過程では省エネなどのコストダウンの努力が最大限に続けられてきた。その努力が行き詰ってくると、人件費を削減することで利益を生み出すようになった。AIやロボットの導入もそうである。人件費負担を限界まで押し下げる非正規社員の採用もそうである。人件費を削減することで、企業はようやく利益を生み出すようになってしまった。生産性の向上は、より多くの人々が豊かさを享受するために進められるべきである。しかし、現実はほんの一握りのごく限られた人しか報われてはいないのである。

 

 衆議院総選挙は、日本国民にとって何年かに一度の政権選択選挙である。該当する小選挙区に支持したい候補者はいないかもしれない。比例で、是が非にでも勝ってほしい政党があるわけでもない。自分の一票など、どれほどの値打ちがある。投票所に行ったところで、政治が変わるわけではない。そう考えてしまうのも仕方がないかもしれない。でも2009年の選挙では大きく政治が動いたのである。新たに政権を握った政党が期待通りの政治を行ってくれたら、日本の政治家はもっと洗練されていただろう。国民は政治に対して多大な期待を寄せていただろう。期待が大きく裏切られた時、日本の民主主義は退化し、政治に対する不信感をもってしまった。

 

 しかし、動いたことは事実である。与野党が攻守所を変えて活発な論戦を交わし、国民の世論を絶えず意識しながら、緊張した政治を心掛けざるを得ない政治環境は作り出せるはずである。そのためには与野党議席差がごくわずかになることが望ましい。その状況を生み出すのは、国民一人ひとりが自分の思いを政治に反映させるために、参政権を行使することが必要なのではないか。

 

 棄権も、現在の政治状況に対する、自分自身の意思表示だと考える人もいるかもしれないが、それは政治家の横暴を許すだけであり、その弊害はこの10年近く私たちが見続けてきたことである。また私には関係ないと考える人も、それこそ自らの生活改善を将来にわたり呪詛するだけの時間を過ごすことになる。投票所に行ったからといって、大きく生活環境が変わることはないかもしれない。しかし、少なからず政治の動向が私たちの生活にかかわっていることを感じるようにはなるはずである。