ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

検察庁法改正(改悪)問題について

検察庁法の改正案は、すべての検察官の定年を段階的に63歳から65歳に引き上げるとともに、「役職定年制」と同様の趣旨の制度を導入し、検事正や検事長などの幹部は原則63歳で、そのポストから退くことが定められています。しかし特例規定として内閣や法務大臣が「公務の運営に著しい支障が出る」と認めれば、個別の幹部の役職定年や定年を最長3年まで延長できるとしています。このため内閣の判断で定年が65歳の検事総長は最長で68歳まで、役職定年が63歳の検事長は最長で66歳までそのポストにとどまることができるのです。その法案に対する意見書が検察庁OBから出された。それによると、「改正案は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化するもので、政権側に人事権を握られ、公訴権の行使まで制約を受けるようになれば、検察は国民の信託に応えられない」としています。

 

 論点の1つは、検察人事への政治介入の懸念です。検察庁法務省に属する行政機関で、検察官の人事権は内閣や法務大臣にあります。一方、検察は捜査や裁判で権力の不正をチェックする役割も担い、政治からの中立性や独立性が求められるため、実際には検察側が作成した人事案を内閣や大臣が追認することが「慣例」となってきました。日弁連=日本弁護士連合会などは、内閣や大臣の判断で個別の検察幹部の定年延長が可能になれば、検察官の政治的中立性を脅かし、捜査を萎縮させるおそれが強いなどと指摘しています。つまり、行政権の頂点にある者が検察庁の人事権を握れば、自分たちにとって不都合な検察官を恣意的な操作で排除することが可能となる恐れが出てくることである。そうなれば、田中角栄元首相がローキッド事件で逮捕されたような事例は未来には決して起こらないであろう。現内閣に独裁政治を行う気持ちはさらさらなくとも、将来の権力者が意図すれば簡単に検察庁トップを挿げ替えることが可能になる道を切り開く(将来の日本国民にとっては大いなるリスクである)ことになるのである。

 

 それでなくても、立法府の与党の国会議員は、権力者に資金面を牛耳られ、選挙に勝利するためには権力者に尻尾をふるか委縮せざるを得ない状況に追い込まれている。最高裁判所の裁判官をはじめ、裁判官の多くはすでに内閣府が人事権を掌握している。立法府の長が内閣府の長として権力の頂点に座り、官僚の忖度を受けながら政策を進めている現行の日本の政治の在り方は、すでに三権分立の体をなしていないのである。そのうえ憲法の解釈変更が、さまざまな場面で恣意的に行われるようになり、立法府での議論すら十分な時間を費やすことなく、最後は数に任せて強行採決がまかり通るようになってしまった。これでは、民主主義の形骸化が進んでおり、独裁政治への道を歩みはじめていると考えたくなる。

 

 今回の新型コロナ感染拡大対策としてなされた緊急事態宣言をみても理解できる通り、危機に際して様々な意見を吸い上げる余裕がないのは仕方がないのかもしれない。しかし安易に国民の権利として保障された基本的人権を大幅に制約することには、大きなリスクを伴うし、そこで生じた損害に関しては可能な限り国家が賠償する責務を負うはずである。たとえば休業を要請すれば当然得るべき売り上げ減少分を補填することが求められるし、休業が長引くことによって起きる経営危機や家計の困窮に対しては、本来の経済活動を大きく損なっている現実を直視し、可能な限り生活破綻を小さくするような財政政策が行われる必要がある。だからこそ、行政はより大きな権力を手に入れたいという思いはあるだろうが、後世においてその権力を手にした誰かが独裁者として君臨することがないように、何らかの形で歯止めがかかるようにしておかなければ、大きな禍根を残すことになる。そして、その災いが起きた場合、歴史的因果関係は徹底的に追及されるだろう。

 

 個別の検察幹部らの定年延長を可能にする特例規定が改正案に盛り込まれた経緯も考察することが必要である。法務省が去年10月末の時点で検討していた当初の改正案では「公務の運営に著しい支障が生じることは考えがたい」などとして、個別に検察幹部の定年延長を認める規定は必要ないとしていました。しかし、ことし1月、政府が従来の法解釈を変更し、東京高等検察庁の黒川検事長の定年延長を閣議決定しました。個別の検察幹部の定年延長の特例規定は、ことしになって改正案に盛り込まれていて、有志の弁護士の団体などは「法解釈の変更による黒川検事長の違法・不当な定年延長を法改正によって後付けで正当化するものだ」としています。また、内閣の判断で検察官の定年を延長する場合の判断基準が示されていないことも論点になっています。元検察幹部は「恣意的(しいてき)な人事の運用ができないよう基準をできるかぎり細かく、具体的に定めることが必要だ」と指摘しています。

 

 今回の法案を今国会で成立させる意図が疑惑に包まれたまま、国会を通過し、しかれたレールの上を当然のごとく歩むことが果たして許されるのであろうか。究極的には個人の選択の自由であり、他人がとやかく口をはさむべきではないだろうが、それでは世論の収まりはつかないであろう。もちろんこの法案をこんな時期にごり押ししようとした人たちが一番問題なのは確かであるが、結果的に話題を提供してしまったことで、舞台から消えるという選択肢もあるのではなかろうか。