ぐーたら親父の言いたい放題

日々の様々なニュースを取り上げて、独自の視点でコメントします。これからの社会の変化を予測し、どのように対処すべきか提案できればと考えています。

プーチンの誤算

 経済制裁に対しては、中国の支援が期待できる。暖房エネルギーの天然ガス原油EUはロシア頼みではないか。決してそんな単純な発想で、ウクライナ侵攻を仕掛けたわけではないだろうが、軍事力で完全にウクライナを圧倒できる目算があったのであろう。一気にウクライナ全土を支配下に置き、傀儡政権を立てて、西側諸国に感じていた脅威を払しょくする。それがロシアの政治的な安定につながるはずだ。

 

 キエフ公国がロシアの原点であるという強い思いがあったのかもしれない。しかしウクライナの主権を無視して軍事力で支配しようという発想は前時代的でしかない。ロシア国民がこれからどのような行動を起こすのかわからないが、プーチンの政権はこれで先行きが見えたかもしれない。核兵器という物騒なものを握っているのは気にかかるところだが、軍事力を振り上げて、「自らの正義」を主張する行為は、今後正当化されることがないと信じたい。ロシア国民の賢明な行動を期待するばかりである。

ウクライナ危機、そして台湾

 ウクライナが緊迫の状況を迎えている。ロシアにとって、原油高が続いているからこそ、自分たちの正義を声高に叫べる時を迎えているようである。エネルギー資源の高騰は欧米からより有利な条件を引き出せるチャンスであるようだ。米国やNATO加盟国による経済制裁が行われようとも、エネルギー資源を握るロシアにとって、少々の経済的締め付けには対抗しうるのである。

 

 親ロシア派が自称している「ドネツク民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を承認したロシアのプーチン大統領は、経済制裁にしか踏み切れない西側諸国をあざわらうかのように、親ロシア派の人々の平和維持という名目で事実上ロシア軍が駐留しているウクライナドネツク州とルガンスク州への軍隊増派を予告した。これは侵攻ではない、あくまで緊張が高まっている親ロシア派住民の安全を守るための措置であるという名目である。米国のバイデン大統領は、さすがに事実上の軍事侵攻であるといいつつ、軍事衝突はあくまで避けたいという意識から、経済制裁で対応すると思われる。

 

 しかし、遠く離れた日本の報道は、どこか牧歌的でさえある。現在起きているウクライナ危機は、国際政治の考えからすると、どう考えてもロシアのウクライナ侵略である。クリミア侵攻の際も、欧米は何もできなかった。今回も紛争の停戦や若いプロセスを定めた2015年の「ミンスク合意」をロシアが一方的に破棄した形になった。そしてどこまでも熱い戦争を避けるための努力を続けざるを得ない状況が続く。

 

 かつて第二次世界大戦は、ナチス・ドイツやイタリアが各地で自らの軍事力を駆使して侵攻していったのと同様の事態が起こりつつあると考えても不思議ではない。国際社会の安定を願って、力で押し切ろうとする国を外交で対処する。そのような英知を発揮してもらいたいものである。粘り強く、外交交渉を重ねていく手腕が米国のバイデン大統領や英国のジョンソン首相、そしてフランスのマクロン大統領やドイツのショルツ首相に期待されている。

 

 問題はウクライナだけではない、東南アジアでも中国の軍事力増強が弱まらない。ロシアだけでなく中国も、国際的な発言力を増しつつあり、しかも国際ルールを順守しているとはとても言えないような振る舞いが目立つ。新疆ウイグル地区の人権問題はあくまで中国国内の問題であり、内政干渉は拒否する頑なな姿勢を崩してはいない。香港の民主派弾圧に対する欧米の非難も聞く耳を持たずという価値観のずれが目立つ。国際社会の円滑な関係を築くような雰囲気があまり感じられない。お互いに相手に対する不信感を募らせているのが、現状ではなかろうか。そういう意味では、戦争ぜにゃであるといっても過言ではないのではなかろうか。杞憂であることを祈るばかりである。

 

 

日本は結局どこへ向かうのだろうか?

 

 今年の元日、日経新聞が掲載した経済・社会指標の各国比較によると、経済成長率の伸び率は先進国平均が2.24%に対し日本は0.73%。賃金の伸び率は先進国平均が1.38%に対し日本は0.09%。教育投資の伸び率は先進国平均10.6%に対し日本は7.8%。この結果として、国民の感じる幸福度が先進国平均6,80%に対し、日本が6.12%でしかないこともうなずける。貧困世帯の割合も先進国平均が11,0%に対し、15,7%と高くなっている。日本の経済力の地盤沈下が進んでいることが読み取れた。

 

 米国が貧困世帯の割合が18.0%と高いことはある程度予測されることだが、残念ながら日本もまた米国同様、国内において経済格差の拡大が進んでいることが分かる。また一人当たりのGDPが増えないのも、欧米に比べて賃金の上昇がみられない。実際2000年より現在までの20年あまりで、日本はGDPで16%の伸びしかなかったのに、英国は40%弱伸びているし、米国は45%を超えている。フィンランドは30%弱、デンマークも30%弱、スウェーデンでは50%を超える伸びを見せている。賃金の上昇では、日本がほとんど伸びていないのに対し、英国では20%の伸び、米国でも20%の伸び、フィンランドも20%伸びている。デンマークは25%、スウェーデンでは40%近い伸びを見せた。これでは韓国にも抜かれるはずである。

 

 コロナ禍に陥る3年前までは外国からの観光客が増えていた。観光立国の可能性もあったぐらいにインバウンドが増加していた時期があった。それは世界遺産をはじめとする観光地が積極的な勧誘をしたり、食の充実ぶりも進んでいたこともあるが、日本の通貨価値が下がっていたがゆえに、韓国や中国からの観光客が増えた主たる要因として挙げられる。為替レートが円高になったがゆえに、日本から外国旅行に出かける人が増え海外旅行ブームが日本でも見られたが、それが中国や韓国で起きていたのである。今やそういう意味では、日本は海外の人から見たときに魅力的な目的地になっていたといえる。それがこのコロナ禍のせいで、インバウンドは激減した。

 

 それが原油高に始まって、小麦粉やコーヒー、乳製品やマヨネーズなどなど輸入が中心の食材などがあがり、エネルギー資源の高騰のあおりを受けて輸送コストの上昇がみられる場面が増えてきそうである。またアメリカは金融緩和の結果、インフレが懸念されるようになった結果、もう一か月もせぬうちに金利が上昇し始める気配がある。そうなれば為替は円安に振れて、ますます日本は物価高になる様相となってきた。しかるに賃金が上がらないため、家計は火の車になりそうな気配が予測される。これも賃金が上昇しないにもかかわらず、物価がインフレ気味になるからで、日本の庶民はより貧しくなっていきそうである。

 

コロナ禍での日常生活?

 頑張った自分にご褒美。収入の上がらない雌伏の時を長く過ごしていると、我慢していたことを少しだけ開放して自分自身を甘やかすわけではないが、緊張感を解きほぐす意味でも、自分を褒めたくなることがある。それで、自分自身を元気づけて、また日常生活に回帰できるのである。

 

 10月から心臓に異常を訴えて入院していた知人が亡くなった。コロナ禍という、100年に一度という感染症に世界が慄いている中、医療が比較的落ち着いていたにも関わらず、万全の治療を受けながらも、永らえることができない人もいる。本人がいざというときには使用を望んでいた人工呼吸器を臨終間際には装着したし、エクモももし使用することで意識が戻るならと家族が望んだ結果装着してもらえた。考えうる医療措置を最後まで施してもらって、知人はあの世に旅立った。

 

 大阪府が医療非常事態宣言を出して、不急の手術の延期などを要請したのが今日の話である。そういう意味では昨日亡くなった知人は恵まれていた。そしてこれからは、救急車を呼ぶのもためらわれる事態に突入する。たとえ119番せざるを得なくなったとしても、すぐに搬送される可能性が低くなりそうな状況になるだろう。日常生活の中での営みにおいて、今一歩注意力を高めて過ごすような意識の高さが求められる。

 

 オミクロン株の猛威は、欧米でようやく峠を越えた感はあるが、感染力の強さを懸念して感染者の隔離を丁寧にやっていけば、医療のひっ迫はやむを得ない。いつまでも感染症2類として濃厚接触者の選別を強いていてもあまり意味がない状況になりつつある。これは暴論かもしれないが、感染者がピークに達する時が、いわゆる集団免疫の獲得の時かもしれない。そうであればと願うばかりである。マスク装着が非日常化する日が近づいていると信じる。

国会議員は世襲が許される

 議員は割が合わない業種だといわれる。選挙で多額の資金を必要とし、そのため国から政党助成金が毎年出ているし、歳費とたった1日でも在籍すると100万円が文書交通費として支給される。それだけでは不足するのか議員主催の懇親会なども盛んに開かれる。政治家は集金能力がないとやっていけない大変な世界であると、マスコミ報道などから我々庶民は感じてしまうのだが、実際はそうではないのだろう。

 

 昨年の衆議院議員総選挙で立候補した1051人の候補者のうち、実に前回から3人増えて131人の世襲候補者が立候補し、そのうち108名が当選を果たした。これは当選者の23.2%に当たり、自民党は実に87人に達する(99名の立候補者)。ちなみに立憲民主党は25名、国民民主党公明党日本維新の会にも立候補者がいた。これほど世襲候補者が出るのは、地盤、看板、かばんがあれば当選の確率は飛躍的に上がるのである。期せずして世襲候補者にはお金はある、ないは関係が低いと判断しても地盤と看板は引き継ぎやすい。お金に関しても地元の有力な家計であるがゆえに、融通してもらえる可能性が飛躍的に上がる。

 

 それでなくても世襲政治家の家計は結構裕福である。邪推するわけではないが、どうも家業としての政治家は割と投資効率が良い結果を残してきているのではなかろうか。」だからこそ、世襲が増えると考えられるのではなかろうか。

 

 世襲政治家が必ずしも国民に不利益をもたらすとは限らないものの、一般庶民としては国会議員といういわば名誉職の家に生を受ければ、今話題の親がちゃではないが、何とも庶民の生活との違いに理不尽を感じざるを得ない。

 

 オミクロン株の繁殖で、コロナ患者が日本でも毎日のように7万人から8万人の新しい感染者が出ている。重症者はこれまでと違いそれほど多くはないが、感染力が高いので保育園児や小学生などに感染者が増加して、保育園をはじめ小中学、高校で休校や学年閉鎖・学校閉鎖が増えている。それは親が仕事を休んで子どもの面倒を見ざるを得なくなっていることにつながり、保育士や教員が休まざるを得なくなっている場合も増加している。もちろん医療関係者や保健所職員も過重勤務を強いられるようになってきた。ここへきても濃厚接触者の扱いをどうするかが、なかなか議論として前に進まないことが気にかかるところである。経済のひっ迫だけでなく、医療のひっ迫、社会生活のひっ迫が徐々に進んでいる。

 

 感染者が重症化しやすかったこれまでのコロナ禍では、感染者の隔離は必須であったかもしれないが、感染者が増えるものの重症化は少ないという見極めが早くできるようになってほしいものである。様々な部署で支障が多くなっていることを鑑みるなら、今後は、もはやインフルエンザと同様に考えてもちろん感染予防は可能な限り万全を期せざるを得ないが、そろそろインフルエンザと同じ対応に切り替えても差し支えないのではなかろうか。コロナ禍以後に対する政策も早急に確立しなければならないだろう。

年齢を意識する時

 また一人訃報の通知を受け取った。正月恒例(?)の年賀状、儀礼の挨拶でしかないのかもしれないが、それでも知人や友人の情報は入ってくる。これまでは喪中の挨拶といえば、たいがい祖父母や両親の訃報がほとんどであった。しかし昨年あたりから、同級生など、ほぼ同世代の逝去の通知が増えてきた。もちろん、事故や病気でこれまでも皆無というわけではなかったのだが、当方も両親が相次いで亡くなったこともあり、年賀状の季節になると喪中の挨拶が少しずつ増えてきたことはわかっていたのだが、コロナ禍の影響もあったのか、今年はやけに多くなり、しかも同世代の訃報通知の増加に驚かされた。

 

 考えてみれば、我が子の年齢もそこそこに達している。孫も生まれた。いやがおうでも自分自身の年齢を意識せざるを得ない年ということである。街を歩けば、私よりも明らかに年齢が高い人が結構元気に行き来している姿を日常として見かけるので、これまではあまり意識することはなかった。しかし、それだけ日本の社会は高齢化しているという証かもしれない。考えてみれば平日の昼間の時間帯は、若者は学校に通っているのだし、多くの人は職場でそれぞれの仕事に精を出しているはずであり、したがって住宅街に残っているのは高齢者ばかりである。そんな中で生活していれば、あまり自分自身の年齢を意識することはないのも当然かもしれない。

 

 目前の課題を追いかけていると、対処療法ばかりになってしまい、大所高所にたって長期的な視点で物事を解決しなくなってしまう。そうなれば、抜本的な改善などできそうもない。長い間意識しなかった、自分自身の実年齢を思い起こし、そろそろ年齢に見合った生き方を心掛けねばならない。今までのような破天荒な生き方ではなく、社会一般の常識に照らし合した普通の生活を心掛ける必要がある。

 

 普通?、普通とは何を物差しにすればよいのだろうか。マスクが日常と化した現状ではマスク着用はマナーであり、普通の装いである。でもこれまで生きてきた長い時間の中では、マスクは冬の一時期風邪を引いたときにするぐらいであった。そして花粉症シーズンに花粉が苦手な人は防護するために着用しただけである。夏の暑いさなかにもマスクを着用し続けた時期はこれまではなかったはずである。しかるに、マナーとしてのマスクが当然であるようになってしまった。過ぎ去りし時を、ついつい考えてしまう今日この頃である。

年頭にあたって

 年が改まってはや7日が過ぎ去り、今日は七草がゆの日である。遅まきながらですが、新年あけましておめでとうございます。本年が皆さまがたにとって良き年になりますよう、心から願っております。それにしても、マスク着用が日常化してはや2年が経ちました。コロナ禍により、2020年に引き続き2021年も慌ただしく過ぎ去ったというところでしょうか。本年はそういう意味において、まずはマスクが不要になる時期が一刻も早くやってくることを願うばかりです。

 

しかるに、コロナ禍はテレワークがすすみ、労働環境を大きく変える要因となりました。また、遅まきながではあるが、日本でも消費行動の中でキャッシュレスが日常化しました。その意味において、庶民の思惑を越えて社会が大きな変革期を迎えたと考えられます。そして、なし崩し的にやってきた2022年。日常的に変革を仕掛けている人や、来るべき時代を予測して着実に準備を進めてきた人ならば、違和感をいだくこともなく新たな時代を受け入れることができます。しかし、そうでない者(多分ほとんどの人々がそうであろう)にとっては、周囲の変化を十分理解できぬままに受け入れざるを得ず、起こりうる状況に振り回され続けていくだけかもしれません。

 

利益だけを考えた効率追求よりは、他者に配慮できる心遣い。これからの時代、求められるのはこの謙虚な姿勢ではないでしょうか。自己の利益を追い求め続ければ、効率を上げる工夫だけが限界を超えて推し進められるだけである。残念ながら、その行き着いた先が原材料のコストカットを極限まで行った挙句、人件費を流動費化することによって利益を生み出す流れを作ってしまった。家計収入が増えなくなった国民は、その結果可処分所得の減少をカバーするために、消費行動を控えざるを得なくなったがゆえに総需要が縮小する状況を必然的に日本国内に作り出してしまった。つまり、それぞれの企業が最大限の利益追求を進めた結果、労働分配率が低下し、それが中流層を減少させて、景気の拡大を妨げていると考えられる。賃金が上がらないがゆえに、日本国民はますます貧困化して、日本経済を縮小させる悪循環に陥っている。

 

 中流階級の貧困化が、日本経済の発展を阻害する真の原因ではなかろうか。日本経済が長い間デフレ基調になってしまっているのは、セーフティネットがぜい弱であるがゆえに、将来の生活不安から少しでも老後資金を残そうという庶民の心理が働くからである。収入が増えないから、ひたすら家計は緊縮を余儀なくされる。宿命として輸入に頼らざるを得ない日本にとって、コロナ禍の中で原材料が値上がりしているだけもリスクが多いのに、アメリカ経済のコロナ禍からの立ち直りによる為替の円安傾向により、諸物価高騰の圧力が次第に強まっている。日本銀行にすれば、ようやく待ちかねたインフレ機運の到来だが、可処分所得が減少している中では、貧困化に拍車をかけて不安をあおるだけである。

 

岸田首相は政府主導で賃上げを推し進めようとしているが、その要請に応じられる大企業はともかく中小企業にとってはハードルが高い。どちらかといえば社会保障制度を改革して、セーフティネットをより骨太な確固たるものにして国民が老後を安心して暮らせる社会を目指すほうがより実現性が高い。医療や教育の低廉化を目指し、次代の若者が夢を持って社会に巣立つことができるシステムの確立を目指すほうが望ましい。そういう意味では、欧米でも議論され始めているベーシック・インカムの導入を考えるのも良いのかもしれない。

 

そのためには、政治への信頼を取り戻さなければならない。今までのように、単なる選挙対策のための、その場しのぎの耳に心地よい公約ではなく、各政党が将来の国民生活の在り方を提案し、それらを議論する場として国会が機能することが大切である。政治家も官僚も、国民の生活を第一義として考えざるを得ない状況を作り出すことが必要である。選挙権を持つ国民一人ひとりが、そのことを真摯に考慮し、具現化しなければまらない。

 

グローバル化が進めば進むほど、排外主義が頭をもたげてくる。欧米におけるポピュリズムの台頭がそのことを明確に物語っている。リベラルが力をつけてくれば、一方で保守化も進む。多様性が認められれば認められるほど、自己の価値観の脆弱性を思い知らされるがゆえに、自己の価値観にかたくなに固執し始める。また、技術革新が進めば、より高度な教育環境が誕生し、そこで知識化が起きる。半面、それらの動きについていくことができず、理解することを拒否する反知性主義ものさばることになる。これは宿命なのかもしれない。理解を超える事象にでくわすと、人間は思考停止を起こして自己防衛に走るのである。